出口のない迷路を歩む。

こんな所にいるのは、あたしらしくない。



Dog Days 3



黒田の電話が鳴った。

ちょうど廊下にいたあたしは電話を取った。

「はい、黒田です。」

「久美子・・・俺・・・」

慎の声が挨拶もせずいきなり言う。

「慎!お前、どうしたんだ。」

こちらの番号にかけてくるのは非常に珍しい。

何かあったのだろうか。

「なぁ、久美子・・・お前、子供・・・」

唐突にそんなことを言い出すので、何を言われたのか、

咄嗟にはわからなかった。

「はぁ?子供?なんのことだ?」

「子供ができたってさ・・・」

子供?子供って?

「子供って、あたしとお前のってことか?」

「ああ。」

この間のタネがどうとか言ってた話の続きか。

あの時の慎のいい加減な態度を思い出し、

そっとため息をついて冷たく答える。

「・・・子供なぞ産む気はないぞ。」

「・・・!」

自覚がないのなら。

覚悟がないのなら。

そんなことは言わないで欲しい。

「お前、今の状態でそんなことが出来ると思ってんのか?」

「いや・・・」

最近のお前は目先の欲の溺れて、何も見えてないだろう?

「余所見してて一人前になれるとでも思ってんのか?」

「いや・・・」

そう、お前は自分の問題を解決してこい。

「じゃあ、この話はおしまいだ。」

「待て。」

だから、こちらはあたしがひとりで引き受けなければ。

「これはあたしの問題だ。おめぇにゃあ関係ねぇ。」

「関係ないなんて事があるかよ!」

慎が声を荒げたので、あたしもつい口調がきつくなる。

「お前に自覚がないんだから、仕方がないだろう?」

「なんだよ、それ!俺はっ!」

これまでと思い話を切る。

「静かに話せないなら、もう切るぞ。

頭を冷やしてから、かけ直せ。

それじゃあな。」


電話を終えて、あたしは考え込んでしまった。

藤山先生の言う通り、ひとりで抱え込んでいても

解決しないのかもしれない。

縁側ですわっていたら、小さい頃のことを思い出した。

ここから見える中庭で、京さんに喧嘩を教えてもらったのだ。

京さんの喧嘩は黒田流というか、自己流で、体術と言うより

精神論や心構えのほうが大きな割合を占めているように思う。

小さい頃はわからなかったけれど、大人になった今考えてみると

稽古を通じて、人間関係の基本を教わったのだと言う気がする。

真っ向勝負。

小手先の技は使わない。

はじめたら最後、絶対に引かない。

相手の急所を的確に打つ。

常に全力を尽くす。

ふんどしをぎゅっと締めておく。

・・・

京さんの教えはどんな偉い先生のお言葉よりも深くあたしの心に植え付けられていて

どんなときにもそれに従ってやってきたのだ。

それなら、恋も?

恋も同じでいいのかもしれない。

これは、慎とあたしのタマの取り合い。

それなら・・・あたしは。

あいつに真っ向からぶつかるのが正しいんだ。

逃げてちゃいけないんだ。

ひとりで背負おうなんて、単なる逃げだ。

問題は一つも解決してなかったけれど。

なんとなく、答えが出たような気がしてきて、あたしは眠ることに決めた。

あいつに会って、正直に話してみよう・・・

慎に電話が通じなくなっていることが気がかりだったが、

顔を見て話そうと決めたあたしは眠りに落ちた。



医者から言われた通り、その週はかなりきつかった。

しかし、思い切って医者に行ったおかげで、

微熱も吐き気も収まってきていた。

第二期の補習が始まり、あたしは毎日出勤していた。

今年の一年生たちは、素行こそ悪いが成績はそこそこ良い子が多く

補習のレベルは高校教師として満足のいくものだった。

去年は九九とかやってたもんな・・・

ま、今年だってやってるのは因数分解と一次方程式なんだけど。

その他にも自主参加の生徒がいて、そいつらは自分の問題集など持ってきて

自主学習し、必要に応じて個別指導をしてやっている。

特にうちのクラスの雑賀など、熱心だ。

この春、慎が独力で東大へ入ったという事実は、

後輩の白金生たちに大きなインパクトを与えた。

自分と同じ立場にいたOBがやり遂げた偉業を見てその気になるやつがたくさん出た。

で、二、三年生は進学者用特別カリキュラムを新たに作り、夏期講習なども行っている。

二学期からは一年生も特別授業をカリキュラムに入れる予定だが

今はまだ、自主学習だけである。

そんなこんなで、補習は去年よりずっと忙しく、充実していた。

補習は午前中二時間ずつ、二クラス分を二交代でやることになっているので午前中で終わる。

その後は、職員室で問題を作ったり、二学期の行事予定の打ち合わせをしたり。

やることは色々あっても、問題を起こす元凶である生徒たちが早々に帰ってしまうため

のんびりとしたものだった。

その日も6時には仕事を切り上げ、白金駅へと向かった。

途中、遠回りして繁華街をぐるっと見回ってから帰るのが、夏休みの帰宅ルートである。

このあたりでうちの生徒たちが騒ぎに巻き込まれたり、

問題を起こしたりすることが多いので、毎日パトロールしているのだ。

ゲームセンターの前に人だかりがある。

どうやら、チンピラが女の子に絡んでいるらしい。

躊躇わずに前に出ようとすると、

高校生が数人、チンピラの前に出ていきなり殴り掛かった。

絡まれていたのは可愛い女子高生で、いいところを見せようと

数に任せて飛び出したらしい。

チンピラが3人組であることに気付かず飛び出したため

あっという間に形勢逆転した高校生たちは

ひとりを除いてバタバタと逃げ出しやがった。

残ったひとりが雑賀であることに気付く間もなく、

あたしは一番手前のチンピラを蹴り飛ばしていた。

「ヤンクミ!」

「おっ!雑賀か?お前、女を守るために残るなんてカッコいいぞ。」

「言ってる場合かよ!後ろ後ろ!」

とうの昔に気配を察していたあたしは、

さっとよけておいて後ろから殴り掛かってきた男に

振り向き様にボディブローを叩き込む。

隣にいたのが掴み掛かってくるからひらりと躱し、当て落とす。

もうひとりは逃げようと背中を見せるから、襟首をつかんで引きずり落とし、

両手の拳を合わせて顎を打つ。

横から踊り掛かってきたやつの鼻に裏拳を浴びせておいた上で、ローキックで脚を払う。

どっと倒れたところで、雑賀と女の子に駆け寄ろうとした。

「おい、無事か?もう怖くない・・」

言いかけたところ、腹に衝撃を感じて思わず踞る。

ちっ、まだ仲間が居やがったか・・・

「ヤンクミー!」

チンピラどもの加勢に気がついた雑賀の叫びが聞こえてきた。

立ち上がらねば・・・