ウージぬ森で 1



「やーまーぐーちーーーっ!

やーまーぐーちーーーっ!

おおーい!!」

いつものように浜辺にぼんやりと座り込んで、ひとり缶ビールを飲みながら

沈む夕日を見るともなしに見ていた久美子は、自分を呼ぶ若い男の声に気が付いた。

最近、と言うかもうずっと、仕事帰りには大抵ここに来て、

途中で買った缶ビールを飲むのが日課のようになっていた。

同僚や生徒たちは余り知らないが、酒屋のおばさんとはすっかり顔なじみだから、

夕方ここに久美子がいるのは近所の人は皆知っていると言っていい。

誰だかはわからないが、おおかた生徒のうちの誰かで、

自分の居場所を聞き出して探しに来たのだろう。

やれやれと思いながら、声のした方を眺めやった。

高校生ではない。長身の派手な男がこちらに向かって駆けてくる。

「あーーっ!いたーーっ!山口!山口ー!」

そばまでやって来た男の顔をよくよく見て、それがやっと昔の教え子だと言うことに気が付いた。

「山口!会いたかったーーっ!!」

いきなり抱きしめられて、久美子は驚いた。

「お前、矢吹?矢吹か?」

「そうだにゃー。会いたかったにゃ。」

ぎゅっと抱きしめて自分に頬ずりしてくる男をなんとか引き剥がして

久美子は改めて男を見やる。

「どうしたんだ、お前。突然こんなところに表れやがって。

仕事はどうした?上手くいってないのか?

あたしでなんとかなることなら相談に乗ってやるから、遠慮なく言えよ。」

「山口は相変わらずだなぁ。ただ会いたかったから来たんだとは思ってくんないわけ?」

そう言うと久美子は嬉しそうに隼人の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「こいつぅ!恩師に会いにこんなところまで来てくれたのかぁ。ええい、可愛い奴!

よぉっし、来いっ!今夜はおごってやるぞ!」

「やったねー♪オレもう成人だから、大人コースでお願いねー。」

「おお?そっかぁ、矢吹ももうそんな年かぁ・・・」

学校帰りだし隼人は荷物もあるしと言うことで、ふたりは一旦久美子の家へと行く事にした。

「へぇ、これが山口の部屋かぁ・・・」

きょろきょろと部屋の中を見回す隼人に久美子は赤くなった。

「ばか。乙女の一人暮らしなんだぞ。ちっとは遠慮しろい。」

久美子が借りているのは、古い一軒家だった。

今ではもうかなり珍しくなった四間の部屋が田の字型に並んでいる伝統的な家屋だ。

古いし、設備も余りいいとは言えないのだが、元々古い日本家屋に住んでいた久美子は

鉄筋のアパートに慣れることが出来ず、赴任後三ヶ月ほどで空き家だったこの家を借りたのだ。

学校へも海へも近いし、何より家賃が安いので気に入っている。

観光客などほとんど縁のないこのあたりは、古くからの住民がいるだけで

皆顔見知り、慣れてしまえば居心地もよく、また治安もいいのだ。

今日この部屋に上がり込んでいる男が、ここら一帯で最も物騒な男なのには間違いない。

案の定・・・

「先生ー?ヤンクミ先生ー?いるかねー?」

隣の奥さんが覗きに来てくれた。

「はぁい、こんばんは!」

「先生さぁ。今日の昼間、目つきの悪い怪しげな男がうろついてたからさー。

気いつけるようにねぇ。」

「ありがとうございます。でも、それってこいつですよね?」

そう言って奥に坐っている隼人を紹介する。

「あんれ。」

「こいつは矢吹隼人と言って、あたしの東京での教え子なんです。

ほら、お前も挨拶しねぇか!」

「ども。」

「なんだぁ、教え子さんかね。いい男だねぇ。・・・恋人かい?先生。」

「ちがい「そうです。」ます。」

「って、お前、なに勝手に言ってんだよ。」

「いーじゃん、別に。恋人いないんだろ?どうせ。」

「なななに言ってんだ。あたしだってだな。」

「まあまあ、ほら先生。いい魚持って来たからさぁ、その色男の教え子さんに食べさしてやんなって。」

「はい。どうもご馳走になります!」

「矢吹、なにお前が主導権握ってるんだよ。どうもいつもごちそうさまです。」

「なあに、先生にはお世話になってるからさー。じゃあね、おやすみ。」

「「おやすみなさい。」」


結局ふたりは家で夕食をとる事にして、焼いた魚と久美子の手料理、そして泡盛で

様々な話をしながら遅くまではしゃいでいた。

部屋数があるからと、久美子は隼人に泊まるよう勧め、

もとよりそのつもりでホテルも取っていない隼人は喜んでそれに応じた。

「なぁ、矢吹・・・」

こちらとあちらに布団を用意し、灯りを落としてそれぞれの部屋へ入ると

壁越しに久美子が話しかける。

「ん?なになに?」

「お前さ、あたしに何か話があるんだろ。」

夏のことで開け放した窓から聞こえる潮騒が、妙に隼人の耳についた。

しばらく考えていた隼人はやがてひとり頷くと、そっと寝床を出た。

月明かりの下で、久美子の布団を眺める。

「山口・・・」

すぐ近くで呼ばれて、久美子は驚いた。

そのまま隼人は布団の中に滑り込んでくる。

「ここで一緒に寝ていい?」

「ば、ばかっ。駄目に決まってるだろ、そんなの。」

「オレさ、山口のこと、好きだ。」

「な、な、何言って・・・あ、そ、そっか、恩師だもんな。」

隼人は久美子に覆いかぶさると、上から覗き込む。

「この体勢で、恩師に感謝の言葉を言うやろうがどこにいるっつーんだよ。

女として好きだって言ってんの。」

茶色のつぶらな瞳が久美子を見据えていた。

その瞳の優しさに、ふと身を任せてみようかと思うがすぐにそれを否定する。

「こんの、合コン大魔王がどの口で言うか。」

言いながら久美子は隼人の口を思いっきり抓り上げる。

「イテテテテーイテーって。やめて下ぱーい。オレ、本気!本気だってば。」

「信じるか、馬鹿者!」

「ひでーよ。オレ山口のことずーっと好きだったんだってば!」

「何を言うか。合コンのたびにお持ち帰りして、そのうち一度限りじゃなしに

付き合ったのは3割くらい、しかも1ヶ月と持ったことがないって知ってんだからな!」

「だーかーらー。それは、山口のことが忘れられないからでー。

って、なんでそんなに詳しく知ってんのー?」

「・・・小田切が教えてくれた。」

「くっそー。竜の奴、返ったら目にもの見せて・・・イテーテテテテ!やめろってー。」

「・・・おとなしくあたしから降りて自分の布団で眠るのと、

家からたたき出されて夜の夜中に見知らぬ街を徘徊するのと、

どっちを選ぶのかなぁ?」

更に強くつねりながら言うと、

「降ります、降りますーってば。ごめんちゃい、許してにゃ。」

「よし。降りろ。」

「山口・・・」

しゅんとなって自分の部屋に引き上げながら隼人が言う。

「でも、オレ、お前が好きってのは本当だから・・・」

「・・・聞かなかった事にしてやる。もう一度言ったら、二度と口聞いてやらないからな!」

「諦めたつもりだったんだけど、駄目だったにゃ・・・」

隼人の声が震えていることに気がついたが、久美子は敢えて冷たい声を出す。

「やーぶーきー!」

「・・・はい・・・オヤスミナサイ。」


こんなことを三夜に渡って繰り返し、鳩尾一回と巴投げ一回を喰らって、隼人は帰っていった。

「また来る。また来るから・・・いいよね?」

別れ際何度も何度もそう念を押した。

夜にどんなに久美子に拒否されても、翌朝にはけろっとして楽しそうに

久美子と出かける相談をしたりする隼人に、久美子は呆れながらもほっとしていた。

「それにしても、懲りない奴。」

隼人を思い出して、久美子はひとり吹き出した。



†††



男の寝顔を見ながら、久美子は突然思い出した。


「なぁ・・・このまま、ふたりでどっか行きたい。」

まだ高校生のこの男が、自分を背中から抱きしめながらそう言ったのだ。

そのときの腕のぬくもりを、自分は気持ちがいいと感じていた。

そう思った事を今この瞬間まで忘れていた。

その言葉は、例えば教室を抜け出そうとか、授業をさぼりたいとか、

そう言った意味で言われたのではなかった。

それを久美子は知っていた。

しかし、久美子が返した言葉は。

「ばーか。次の授業が始まっちまうだろ?サボりはだめだ!」

腕を放した男は悲しそうに久美子を見ると、ぽつりとつぶやいた。

「・・・・・」


彼が何と言ったのか、どうしても思い出せなかった。

ただ、深い色をたたえた黒い瞳だけが脳裏によみがえった。


†††