※原作・卒業後、お付き合いしてるのか微妙な時期
中秋の名月
時刻は十一時で、まだ寝るには早いと思っていたところだった。
ピンポーン
突然チャイムが鳴って慎は驚いた。普通の人間ならば他人の家を訊ねようなどとは考える時間ではない。普通の人間ならば、だ。
だが慎にはこう言うことをしそうな人間にひとりだけだが心当たりがある。はぁっとため息を吐きながらも、若干いそいそと玄関へ行く。ドアの覗き穴から思った通りの顔が見えて、慎の機嫌はわかりやすく良くなった。しかし、ここで仏頂面を崩しては相手にいいように振り回されるだけだ。
「よう、慎公。元気か!」
「・・・こんな時間に大声出すな。早く入れ」
「はーい。お邪魔しまーす」
ずかずかと入ってきたのは、慎の高校時代の担任で山口久美子と言う人物だ。高校卒業間際に慎が告白し、その返事を久美子は有耶無耶にしたままでいる。気は合うし気心は知れているしで互いに居心地がいいふたりは、付き合っているようないないようなそんな曖昧な関係のままもう二年余を過ごしている。
久美子は下げていた折り詰めを慎の胸元に差し出すと勝手知ったるとでも言うようにどんどん奥へ入っていく。どうやら少し酒も入っているらしい。夜中に酔ったまま付き合っているわけでもない男の部屋に、女がひとりでやってくるなんて危ないじゃないか、と思うのは久美子を知らない人間だけだ。むしろ危険なのは慎の身だろう。
「マンガの酔っぱらい親父かよ」
慎が悪態をつきながら折り詰めを開けるとなめらかな白い団子がずらりと並んでいた。甘辛両刀行けるものの基本的に辛党の久美子が持ってくるにしては珍しい土産だった。
「茶、切らしてんだ。団子に合うようなもん何もないぞ」
慎が言うと、冷蔵庫の中が見えたのか
「ビールがあるだろ。ビールにしよう、ビール」
と言った。ため息を吐いて缶ビール二本と箱に入れたままの団子をベッド脇のローテーブルに運ぶ。それぞれ一本ずつ開けるとがこんと冴えない音で乾杯してちびちび飲んだ。合間に団子を少しずつつまむ。ほんのり甘くて素朴な味のそれはなぜか懐かしい味がした。
「あ、そうそう。忘れるところだった」
久美子がいきなり立ち上がって、慎の部屋の南に面したベランダへ通じているガラスの引き戸の前のカーテンを勢いよく開いた。同時に部屋のあかりも消してしまう。
おい、何するんだと言いさして気が付いた。今夜は満月だった。それも、見事な。
久美子は立ったついでにとローテーブルをベランダの方へ寄せ、秋風が気持ちいいからと引き戸を開け放ったまま向かい合ってすわる。特等席だった。
「すげぇな・・・月が綺麗だなんて、思ったことなかったな・・・」
「ふふっ。康絵さんの店に行ったら団子が出てきてな。何かと思ったら今日は月見だっていうから。お前に食わせてやろうと思って少し分けてもらってきたんだ」
「じゃ、これ康絵さんの手作りか」
「そ。もうこんな時間じゃ尾花も手に入んなかったけど、ま、団子と酒がありゃ月見て一杯と洒落込めらぁな」
「ははっ、風流なんだかそうじゃないんだか」
「・・・黙って食え」
「はいはい」
それからしばらく、ふたりとも黙って飲んでいた。月光は明るく互いの顔がはっきり見える。慎は月を見上げる久美子の顔をつくづくと眺めていた。決して美人と言えるわけではないが、小作りで端正な横顔は慎のお気に入りだった。正面から見つめているといつも機嫌を損ねてそっぽを向かれてしまうので、横顔ばかり見ているせいかも知れなかった。
不意に、月を見上げたまま久美子が言った。
「おい、なんか言え」
「は?・・・団子、旨いな」
訝りつつ慎が言うと久美子はぷっと膨れっ面になったようだった。
「そうじゃなくて、いつもみたいに歯の浮くような戯れ言でも並べてみろ」
「え・・・」
「ああ、もうっ」
焦れたような久美子の声が上がって、テーブル越しに胸倉を掴んで引きよせられた。驚いていると、久美子の白い顔がさっと寄ってきて、慎の頬を温かい感触がかすめていった。
「・・・」
まだ驚いて何も出来ずにいる慎をどさりと放り出すと、久美子はぷいと向こうを向いてしまった。月明かりの下でもはっきりとわかるくらい赤い頬をしている。
慎の驚きは次第に温かな思いへと変わっていく。慎の顔が自然にほころんできた。まだこちらを向いてくれない想い人に声をかける。
「山口。一昨年の三月の俺の告白、あれまだ有効だから」
びくっと久美子の肩が動いた。慎はにじりよってそっと肩に手をかける。若干身体を固くしたものの久美子は逃げなかった。そのまま耳元でそっと囁く。
「好きだ、山口。あのときも、今までも、これからも」
後ろから覆い被さるように久美子の身体を抱きしめる。ふるふると震えてはいるが今日は逃げずにいてくれるらしい。念のため拳を確認するが握られていない。大丈夫と踏んで慎はもう一手進めてみることにした。
「これからいくつか質問するけど、首を振ってくれるだけでいいから」
こくんと久美子の頭が縦に落ちる。
「俺にこうされてるの、いや?」
首が横に振られる。
「じゃあ、いやじゃない?」
こくんと頷く。
「俺の気持ち、知ってる?」
こくん。
慎は言葉をためて大きく息を吐いた。一番大事な質問だ。
「俺のこと、好き?」
こくん。
身体にぎゅっと力が入った。情けないことに涙が出そうだった。腕の中の久美子が身じろぎして、ゆっくりと身体を反転させた。そのまま慎の襟元に顔を埋める。
「俺と・・・俺と付き合ってくれる・・・?」
こくん、こくん、こくん。
「や、まぐち・・・」
感極まって久美子の身体を抱きしめる。しなやかな、でも驚くほど小さな身体だった。
「沢田ぁ・・・」
腕の中の久美子も泣いている。
「返事、告白の・・・して、くれたのに・・・タイ、ミング、逃して・・・お前、もう、好きじゃ、ないかもって、思ったら・・・だから・・・」
こんなに遅くなってごめんなさいと、涙まみれで笑った顔は今まで見たどの久美子よりも綺麗だと慎は思った。
月光に照らされた部屋の中で、ふたりは約束のように触れるだけのキスをした。
キスを終えると、慎はその流れのまま久美子を押し倒した。もう一度キスをしようとすると、久美子が腕を突っ張ってどうしてもさせようとしない。
「こっちは二年半も待ったんだぞ。今更止められっかよ」
「こっちだってお前が成人するまで待ってたんだ」
始めて聞く意外な事実に慎は目を丸くした。
「じゃあ、何で去年の誕生日のときに言ってくれなかったんだよ」
「いや、そのー・・・やっぱ成人式終わってからじゃないと成人じゃないのかなーと・・・」
「じゃ、なんで今年の冬に言わねぇんだよ」
「いや、ま、お前テストとかあるし、ゼミに慣れるのとかで忙しいだろうし・・・色々機会逃しちゃって・・・」
慎ははぁっとため息をついた。
「じゃあ今は俺は成人してるし、大学も順調だし、問題ないな」
「駄目だ」
「何でだよ」
ちょっとむっとしながら慎が言う。ここまで頑なに拒まれると男しては後には引けない。
「付き合ったその日に深い関係になるなんてそんなのはしたないだろ」
昔気質な久美子に、慎は思わず破顔した。
「じゃ、いつならいいわけ?」
「・・・うっさい、自分で考えろ!」
付き合いはじめても一向に甘くならない漫才のようなふたりの掛け合いを、月が静かに照らしていた。
2013.10.2
双極子